白バラとは -Die Weiße Rose-

白バラとは  成り立ちと活動  白バラの名前  用語解説  白バラ備忘録

白バラとは 

1942年6月頃から1943年2月まで、ドイツ・ミュンヘンで6種類の反ヒトラーのビラを作成、配布したり、深夜に街中の壁にタールでスローガンを書くなどの抵抗運動をした大学生を中心としたグループ。主な人物は以下の6名。

ハンス・ショル 1918年生まれ ウルム出身
ミュンヘン大(医学) 陸軍学生中隊所属 プロテスタント
アレクサンダー・シュモレル 1917年生まれ ミュンヘン出身
ミュンヘン大(医学) 陸軍学生中隊所属 ロシア正教
クリストフ・プロープスト 1919年生まれ 南バイエルン出身
ミュンヘン大(医学) 空軍学生中隊所属 カトリック(処刑前に受洗)
ヴィリー・グラーフ 1918年生まれ ザールブリュッケン出身
ミュンヘン大(医学) 陸軍学生中隊所属 カトリック
ゾフィー・ショル 1921年生まれ ウルム出身
ミュンヘン大(生物・哲学) プロテスタント
クルト・フーバー 1893年生まれ シュトゥットガルト出身
ミュンヘン大 哲学教授 カトリック

成り立ちと活動 

アレクサンダー(以下アレックス)とクリストフは1935年、同じ高校で知り合い親しくなった。ハンスとアレックスは1940年、同じ学生中隊に所属し同じ時期に医師予備試験を受けることになるなど行動範囲が重なっているため、その頃お互いの存在を知ったと考えられている。

1942年6月、ハンスとアレックスは戦争を続けるナチスに対する抵抗を呼びかける無記名の文書(ビラ)を謄写器で印刷し、知人やミュンヘン在住の教師、医師などの知的職業関係者と飲食店に郵送した。この「抵抗」とは武装蜂起ではなく、軍需機関での労働やナチスの祝典・集会への不参加、戦争に利用される可能性のある研究を中止する、などの消極的抵抗のこと。7月下旬までの約二ヶ月間に計4種類のビラが配布された。この頃、所属しているフェンシング・クラブや合唱団で顔見知りとなり親しくなっていたヴィリー・グラーフも、ハンスやアレックス主催の読書会に誘われ彼らの活動を知る。

7月23日、ハンス、アレックス、ヴィリーは東部前線での医療実習のためロシアに向かった。出発前夜に開かれた友人主催の送別会に、ミュンヘン大学のクルト・フーバー教授も招待されていた。生活のためにナチスに入党したが、ナチスから否定された思想家たちへの敬意をはっきりとあらわした講義と教授自身に、学生たちは魅了されていた。しかし、教授も郵送でビラを受け取っていたが、それが誰から送られて来たのか、書き手が誰なのか、この時はまだ知らなかった。

11月、実習を終えミュンヘンに戻った彼らは再び活動を始める。アレックスの画塾仲間とファルク・ハルナックが友人であることに気づいたハンスは仲介を頼み、ケムニッツで軍務についていた彼に会いに行った。ハルナックは「赤い楽隊(ローテ・カペレ)」と呼ばれるベルリン反政府地下組織の中心人物アルヴィトの弟。ハンスは彼からベルリンの抵抗運動について情報を得ることを期待したらしい。またハンスは12月9日にフーバー教授を訪ね、自分が白バラのビラの発行者であることを告白。ヴィリーはクリスマス休暇に故郷のザールブリュッケンに戻ると、カトリック系青年団時代の友人たちにビラ配布の協力を求めた。

1943年1月、ハンスによって書かれたビラ第5号が印刷され、ヴィリーはラインラントヘ、ゾフィーはアウグスブルクへ行き投函した。ザルツブルク、ウィーンでも同様に、各人の時間と行動を利用して差出人不明の郵便物はドイツ各地に撒かれていった。彼らはビラ作成だけでなく、直接行動も始める。2月3日、8日、15日の深夜、ハンス、アレックス、ヴィリーの3人はミュンヘン市内の通りの壁にタールで反ナチ・スローガン「自由」「打倒ヒトラー」を書いてまわった。

スターリングラードのドイツ軍降伏(1月31日)に衝撃を受けたフーバー教授はすぐに草稿をタイプしハンスに渡す。最後のビラとなるこの第6号は2月中旬には印刷され投函された。

ハンスの手にはもう一つ、フーバー教授と同じくスターリングラード敗戦に触れたクリストフの草稿があった。しかしこれは印刷・配布されることはなかった。2月18日、ハンスとゾフィーは第6のビラを大学構内で撒いているのを発見され逮捕される。ハンスがクリストフの手書きの草稿を持っていたため、翌日にはクリストフも逮捕された。

ショル兄妹とクリストフは取調べの後、2月22日(逮捕から4日後)民族裁判所で死刑判決を受け、その日の午後、シュターデルハイム刑務所内で処刑された。死刑執行までの3人の毅然とした態度については、警察や刑務所付聖職者など多くの人が証言している。

ヴィリーは2月18日深夜、自宅に戻ったところを逮捕された。アレックスは逃亡を試みたが2月25日に、フーバー教授も27日に自宅で逮捕された。彼らの裁判はその間逮捕された多くの友人らとともに、2ヵ月後の4月19日(ヒトラーの誕生日の前日)に開かれ、ほぼ全員が有罪判決を受けた。アレックスとフーバー教授は7月13日に処刑され、残る協力者の名を聞き出そうとする秘密警察と闘いつづけたヴィリーも10月12日に処刑された。

白バラの名前 

「白バラ」という名がどうして付けられたのかは不明。ショル兄妹の姉インゲは「所属機関名などがなく空白で、政党や宗教とは関係がないというメッセージではないか」と推測している。

白バラについての本の著者たちは、ショル兄妹の起訴状にある「ハンスが『同名のスペインの小説』からとった」という箇所から、この小説とはB・トラーヴェンの(メキシコの農場が舞台の、石油コンツェルンと農場主の闘いを描いた)小説『白バラ』ではないか、としている。また、1990年代に入って初めて公開されたハンスの尋問調書には「当時ブレンターノ(ドイツ・ロマン派詩人)の『白バラ』というスペインの物語詩に感銘を受けていたのでこれを選んだ」とあり、ブレンターノのスペイン風叙事詩『バラの花冠のロマンツェ(登場する少女の名がロサ=ブランカ)』ではないか、としているものもある。

ハンスの手紙にはバラについて語っているものがいくつかある。「・・・僕の胸ポケットにはバラの蕾が入っている。この小さな植物が僕には必要なんだ。これは生の別の面だからね。軍隊生活とはまったくかけ離れているんだけど、でも別に矛盾してるってわけじゃない。いつでも何かしら小さな自分だけの秘密をもって歩いていずにはいられないんだ。僕の今の戦友たちみたいな連中と生活しているときには特に。(姉インゲ宛1938年6月27日)」(『白バラの声』インゲ・イェンス編・山下公子訳/新曜社)

古来、白バラは秘匿の象徴でキリスト教においては純潔を意味する。また「バラの下で」と言えば、「細心の注意を払って進められる密談」の意味がある。これらのことも、ハンスたちが「白バラ」をこの活動の名前に使った理由の一つと考えられている。

用語解説 

白バラの本を読むと出てくる、あまり一般的ではない言葉について。

【映画『白バラは死なず』】
1982年西ドイツ(当時)公開。日本でも1985年に公開された。監督はMichael Verhoeven、原題『Die Weiße Rose』。ゾフィー・ショルが大学入学のためミュンヘンにやってきた1942年春から始まり、1943年2月22日のゾフィー処刑のシーンで終わる。内容、ビデオの借り方については映画『白バラは死なず』にて。

【映画『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』】
2005年ドイツ公開。日本でも2006年に公開された。監督はマルク・ローテムントMarc Rothemund、原題『SOPHIE SCHOLL - Die letzten Tage』。ショル兄妹逮捕前夜から1943年2月22日のゾフィー処刑までを描く。作品情報については映画『白バラの祈り ― ゾフィー・ショル、最期の日々』にて。

【読書会、討論会】
友人同士が集まり文学、哲学、神学などの本を読み、語る会。時には作家本人や専門講師を呼ぶこともあった。基本的には政治色は薄い。しかし扱う本が政府から禁書(著者がユダヤ人、反体制作家など)とされている場合、または講演者本人が作家活動を禁止されている場合などは、政治的な集会として取り締まりの対象になる可能性もあった。場所は個人宅を利用した。

【ヒトラー・ユーゲント】
ナチスの青少年組織。制服着用、団旗掲揚、点呼、行進、などを行う軍隊風組織の中で国家に忠誠を誓う未来の兵士を育てていた。また、キャンプ、ハイキング、労働奉仕などの団体生活・活動を通じて祖国や民族共同体、郷土愛について考えさせ従属意識を植え付けていた。古くからあった各青年団が廃止されてからは加入が義務化され、拒んだ者は大学入学資格が得られないなどの制裁を受けた。白バラの中ではハンス・ショルがユーゲント活動に熱心だった(1936年まで)。詳しくは1930年代前半のヒトラー・ユーゲントにて。

【謄写版印刷】
謄写版印刷に関するサイト:
 「Web謄写印刷館」
 http://www.showa-corp.jp/toshakan/index.html

コピー機がなかった時代、あっても会社組織や先生しか使えなかった時代(1980年代初めくらいまで日本の学校でも使っていた)、謄写版は素人による大量印刷を可能にしていた機器。白バラの時代、「複写する」「コピーする」とは、謄写版印刷かタイプライターでカーボンコピーを作ることだった。

【タイプライター】
手動タイプライターに関するサイト:
 「山口県立山口博物館」内「収蔵資料紹介・理工1」
 http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/db/rikou/syuzou_ri_10.html

白バラの人々はビラの原紙を鉄筆などで手書きしたわけではなく、手動タイプライターを使った。また、ビラを受け取った人たちがこれをさらに広めるために行った「複写」にも手動タイプライターが使われた。タイプライターはワープロやパソコンのように「保存」→「○部印刷」ということができない。 a のキーを打てば機械が動き、紙に a と印字される。「複写」には、セットした紙の下にカーボン紙を入れ、さらにその下に2枚目の紙を入れ、指にかなり力をいれてキーを打つ。かなりの労力を必要とする。


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